お年玉は貯金なんかしないで今きみの欲しいものを買いなよ。親がお年玉貯金推進派だったので「お年玉でアレを買った」という記憶が自分には全くありません。そこで、子供のお年玉の使い道について提案。「お年玉は全部使わせる、親は使い道に口を出さない」金は天下の回り物、貯金させない方がいいと考える理由をことわざ絡めてお話します。
お年玉を貯金させる親は子供のワクワクを奪ってる?
お年玉といえば思い出すのが「栗の甘露煮」。
親戚が集まると三十年以上経った今も誰かが言い出しでは皆が笑う微笑ましいエピソードです。
当時小学校2年生だったいとこ、彼女に集まったお年玉の総額は3000円でした。
親から、
「お年玉で何でも好きなものを買っていいよ」
と言われ、
彼女がソッコー買いに走ったのが高級瓶詰め「栗の甘露煮」当時約3000円。
冬休みの間おやつの時間、ゆっくり慈しむように一粒一粒を味わい、数日後シロップの一滴も残さず食べきったという話です。
母親に連れていかれた年末の買い出しで「栗の甘露煮」の存在を知った彼女、
「いつかあのビンを独り占めで全部食べてみたい」
と子供心に夢見たそう。
大人達はいとこの食い意地と全額張り込んだお年玉の使いみちを面白がっていましたが、お年玉は全額貯金させられていた自分、好きなものが買えるいとこが羨ましくて仕方なかったものです。
小学2年生、8歳だったいとこにとって3000円っていうのはとても大きな額です。
毎月もらうお小遣いでは買えないレベルのものを手にできるというのは、まさにエキサイティング。
彼女の決断力もさることながら、自身の喜びと引き換えにできる対価だったのでしょう。
子供がお年玉を自分で使わなければ、「これは無駄だったな」と痛みを感じることもなければ、「あといくらぐらい使えるのかな」と計算することもありません。
大人になっていく過程で、子供はこういったことの一つ一つが体験記憶となり、経験が積まれ本人の素養になっていくのだと思います。
一方、親の言いつけでお年玉は全部貯金した私。
友達と遊ぶ時も、みんなはお年玉で買ったゲームを持ち寄っているのに子供心に肩身が狭く。。。
貰ったお年玉に何一つ思い出がありません。
お年玉っていうのは、もらってすぐに使えばその時その当時の自分にとって、メチャクチャ価値あるものになるのに、ただ貯金して放置しておくと何の刺激も含みもないもの。
お年玉を貯金させる親は子供のワクワクを奪ってませんか?
こんな世界があるんだー、という未知の刺激を取り上げていませんか?
そういえば、私のお年玉貯金は一体どこにいったのかしら。
ことわざ金は天下の回りものと黒海沿岸の町
『金は天下の回りもの』ということわざがあります。
江戸時代、江戸っ子が割りの良い仕事にありつき、久し振りに財布が潤ったので仲間を誘います。
「今夜はドーンと行こうぜ!」
「てやんでえ、こちとら江戸っ子だい。宵越しの銭は持たねえや」
「なーに、金は天下の回りものって~ぇことよ!」
落語や時代劇でおなじみのせりふですね。
金銭は水もの。今はお金がなくても、そのうち回ってくるから悲観することはないよ、という励ましの意味を込めて使う場合もあります。
確かにお金というものは、人と人の間をどんどん回って回転して、回転すればするほど経済が発展していきます。
華僑の知人から、中国語にも「天下」(テンシア)と言う言葉があり、意味も日本語と大体同じだと聞いたことがあります。
でも華僑が「天下」と言う時は大事な仲間を意味するとか。
そんなことを思い出したwebで流れている「コピペ」、
タイトルはないのですが、以下に拝借します。
▽—-ここから
ときは8月、黒海沿岸の町。雨にぬれる小さな町は活気がなく、すっかり寂れていた。
人々は借金を抱えて苦しい生活をしているのだ。
その町へ、一人の旅人がやってきた。そして町に一つしかないホテルに入ると、
受付のカウンターに100ユーロ紙幣を置き、部屋を選ぶために2階へ上がって行った。
ホテルの主人は100ユーロ紙幣をひっつかんで、借金返済のために肉屋へ走った。
肉屋は同じ紙幣を持って養豚業者へ走り、100ユーロの借金を返した。
養豚業者はその紙幣を握ると、つけにしてある餌代と燃料代を払うために販売業者に走った。
販売業者は100ユーロ紙幣を手にすると、この厳しいご時世にもかかわらず、つけでお相手をしてくれる
町の遊女に返そうと彼女のもとに走った。遊女は100ユーロ紙幣を懐にしてホテルに走り、
たびたびカモを連れこんだホテルに借りていた部屋代を返済した。
ホテルの主人は、その100ユーロを受け取ると、紙幣をカウンターの元の位置に置いた。
ちょうどそのとき、部屋をチェックして2階から降りてきた旅人が、どの部屋も気に入らないと云って
100ユーロ紙幣をポケットにしまいこみ、町を出て行った。
誰も稼いでないけど、町中の誰もが借金を返し終わり、町は活気を取り戻した
△—-ここまで
内容そのものは置いといて、基本的にお金は「回る」ことに意味があるんだなー、と改めて思います。
ホテルにしても、肉屋にしても、借金が100ユーロ。
たとえばホテルは遊女から100ユーロのツケ、つまり債権を持っていますね。
資産としてはプラスマイナス0の状態です。
それぞれ町の人は債権として持ってはいるが、現金がないためお金が回っていない。
なので不景気、という状況。
たとえばこの旅人が「金貸し」だとして。
一時的にホテルに100ユーロを貸した、としましょう(無利子で)。
旅人が無利子で資金を町の中へ注入してくれたおかげで、みんなの借金が返済されて金回りがよくなり景気が回復したと言えますね。
いわゆる中央銀行が公定歩合を引き下げゼロ金利(低金利)で市場へ資金を注入するのと同じ現象が起きているわけです。
お年玉は貯金しない使い途はモノを買うこと
黒海沿岸の町のように、お金は「回る」ことで何倍もの価値を生むもの。
ひとり抱え込んでいても意味がないということをまず、私たち大人が知ることが必要なんじゃないかと思います。
AさんがBさんからコミケで同人誌を買った→Bさんはそのお金でCさんからフィギュアを買った→Cさんはそのお金でDさんからTシャツを買った→Dさんはそのお金で・・・
という感じでループが成立し、みな、欲しいものを手に入れることができるのがお金が回る価値。
で・・・そんな関係でループが拡がっていくと、もしかしたらあなたの働く会社の部品やサービスもそのループに入っていて、それがあなたの給料(報酬)になっていく事もあるってことです。
このごろのマネー誌なんかでひたすら貯蓄をあおるような記事を見かけますが、未成年や20代のうちから、「1万円の経験」より「1万円の貯金」を選んでるなら相当マズイと思うんですよ。
若いから、いや若いほど、お金がないのは当たり前。
でも、その若さなりに貴重なお金を手にした時、そのお金で交換できる「経験」を選んで「体験」することが、どれだけあなたの世界を広げてくれることか。
私のお年玉貯金経験からいうと、使い途のあてもなく貯金するなら死に金も同然。
10万円の貯金がある人は10万円の貴重な経験を取り逃がしてきたともいえます。
貯金をすることが、子供の世界を拡げてくれる経験よりも良いお金の使い方だと思いますか?
まとめ
「次のゲームソフトを買うために貯金する」とか、「○円を貯めてコンサートに行く」など、子供に具体的な「目標」があって、目標達成のために貯金するのはかまいません。
子供ながらに優先事項がわかっているのはむしろ頼もしいですね。
子供が自分で自分のお金の使い道を考える。
こういった経験を小さいうちから重ねることは、大人になってから賢いお金の使い方ができるベースにつながるんじゃないかなと思っています。