赤穂浪士の討ち入り12月14日に何があったの?
原因は?
わかりやすくまとめると?
忠臣蔵との違いは?
その疑問、解消します!
意外と知らない事件の原因、
おおまかなあらすじ、
物語のポイントの武士の心情、
日本人に好まれる理由をわかりやすくお伝えします。
赤穂浪士の討ち入り12月14日に何があった?
12月14日は赤穂浪士討ち入りの日。
学生時代のボーイフレンドが12月14日生まれで、赤穂浪士ファンだったことから、赤穂浪士や忠臣蔵についてハマっていたことがありました。
「12月14日」というのは旧暦での数字、現在の暦で言えば1月30日にあたります。
『忠臣蔵』のモデルとなった、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)率いる浪士・47人が、主君の仇・吉良上野介 (きらこうずけのすけ)の屋敷に突入した吉良邸討ち入り事件のあった日が旧暦の12月14日。
赤穂浪士たちは主君の仇、吉良上野介を討ち取るという劇的な結末でこの日を終えました。
忠臣蔵と赤穂浪士の違い
忠臣蔵は、元禄の赤穂事件を元にした歌舞伎や人形浄瑠璃または映画・ドラマの作品群の題名です。
忠臣蔵は赤穂浪士のかたき討ちを扱っています。
赤穂浪士は忠臣蔵の主人公であり、実在の人物たちです。
赤穂浪士は赤穂義士ともいわれ、旧赤穂藩士47名のことで、四十七士とも呼ばれます。
討ち入りの日は忠臣蔵の日
12月14日は「討ち入りの日」でありつつ「忠臣蔵の日」ともされています。
以前は年末年始になると、冬の風物詩のようにテレビで討ち入りの時代劇をよくやっていたものです。
雪を踏みしめて吉良上野介の館へ向かう赤穂の四十七士は、映画やドラマで非常にドラマチックに描かれて印象的です。
ですが、雪はあくまでフィクション上での演出であり、史実では雪など降っていなかったという説もあります。
300年以上も前、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした話は有名ですが、実際、赤穂浪士の討ち入りって、実際どんなことがあったのか、どうして討ち入りをすることになったのか、わかりやすくお伝えしていきますね。
赤穂浪士をわかりやすくまとめると?
赤穂浪士の討ち入りをわかりやすく一言で言うと、
「四十七人の元赤穂藩士が主君の仇討ちに命をかけた事件」
です。
古くは 近松門左衛門の浄瑠璃、歌舞伎など、昔からさまざまなメディアで演じられてきたこの事件は、TV や映画の『忠臣蔵』としても有名です。
広く知られている物語のあらすじは、おおよそ以下のようなものです。
赤穂浪士討ち入りの簡単なあらすじ
ことのは始まりは1701(元禄13)年 3月14日、場所は江戸城の松の廊下。
播磨赤穂(ばんしゅうあこう)城主:浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が 、旗本:吉良上野介(きらこうずけのすけ)に突然斬りかかって傷を負わせます。
そのお咎めで浅野内匠頭は即日切腹、お家も取り消しになります。
このとき、幕府からは喧嘩両成敗の采配はなく、吉良側には何のお咎めもなし。
その2年後の1702(元禄15)年12月14日、主君の仇を討つべく旧浅野藩士47人が吉良邸に討ち入り吉良義央を殺害、主君の仇討ちを敢行します。
そののち、討ち入りを行った浅野藩士は処刑されます。
赤穂浪士討ち入りの原因を忠臣蔵から見ると?
広く知られている赤穂浪士の討ち入りは、近松門左衛門が描いた『仮名手本忠臣蔵』の物語が史実として伝わったものです。
赤穂浪士の討ち入り事件については、公文書の類はまったく残っていないとされています。
なので、赤穂浪士の討ち入りについては様々な解釈があります。
吉良贔屓の人たちも少なくありません。
ここでは『仮名手本忠臣蔵』『忠臣蔵』といった物語から解釈した赤穂浪士の仇討ち事件ということでお伝えしますね。
事件の発端
江戸は元禄、将軍:徳川綱吉の時のこと。
江戸城に宮中から大切なお客さんが来るというので、その接待役ということで、播州赤穂藩主である浅野内匠頭が任命されます。
播州赤穂は今の兵庫県赤穂市、塩の名産地として有名ですね。
浅野内匠頭は若い殿様(寛文7年1667年生まれ)、播州に住んでいる上、古いしきたりとかよくわからないので、指南役である吉良上野介に聞きに行きます。
ところが、この吉良上野介が曲者、というか意地が悪いんですね。
寛永18年(1641年)年生まれとされているので、当時60才は過ぎているんですが、三十半ばの浅野内匠頭にことごとく意地悪をする。
意地悪をする理由は、浅野内匠頭が吉良上野介に払った賄賂が少なかったからとも言われていますが、とにかく意図的に浅野内匠頭を困らせるわけです。
明日までに畳何十畳用意しろとか、着ていく服をわざと違うものを教えたりして準備するものに変更や追加を繰り返し、そのたびに赤穂浪士たちが駆けずり回ってなんとか用意するといった様子がドラマや小説では描かれています。
何しろ殿中でのこと、浅野内匠頭も耐えるのですが、吉良上野介のイヤミな振る舞いがあまりに度が過ぎて、ある日、ブチギレ。
持っていた短刀で、江戸城の廊下を歩いていた吉良上野介を斬りつけるという刃傷沙汰を起こします。
これが有名な江戸城松の廊下、1701(元禄13)年 3月14日のこと。
吉良上野介の傷は浅く命に別状はありませんでしたが、江戸城内で刀を抜くことは禁止事項、その上、宮中から大切なお客さんを迎える大切な日に刃傷沙汰を起こしたということもあり、浅野内匠頭は即日切腹となります。
当時は喧嘩両成敗といった采配が行われるのがしきたりだったにもかかわらず、吉良上野介にはお咎めなし。
詳しい取り調べが時間をかけて充分に行われなかったことや、大名でもある身分の浅野内匠頭が庭先で切腹となったことに、赤穂浪士たちは驚愕しました。
その後、吉良上野介は隠居。
赤穂の浅野家はお家断絶となりました。
赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助登場
江戸城での刃傷事件により赤穂浅野家は断絶、領地召し上げのうえ赤穂城は公収、三百余人の藩士と八百人の足軽と中間及びその家族が路頭に迷うことになりました。
赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は吉良上野介の処罰(喧嘩両成敗)を訴えながらも、浅野家の再興を第一に据え、奔走しますが、結果的に喧嘩両成敗の願いも叶わず、お家再興の望みも絶たれました。
こういったことが、武士の面目をかけた吉良邸への討ち入りにつながっていきます。
我らが殿の無念を晴らそう!と家臣47人と吉良邸に討ち入る計画を立てるんですね。
必ず主君の仇を討つ
お家再興を願って、大石内蔵助のもとに集まった赤穂の浪士は望みが絶たれて四散、百二十名余いた同志が五十数名にまで激減します。
志の固い浪士たちは江戸での極貧生活に耐え、偽名を使い、いろいろな職業に姿を変え、つつましい暮らしをしながら吉良邸の探索を続けます。
吉良側もかたき討ちにくるのを予想してますから屋敷の防御を固め警戒してます。
討ち入りまで2年弱。
映画やドラマでは、大石内蔵助が周りから頼りないとか昼行灯だの言われ京都の祇園で遊びまわるシーンがあります。
全ては敵を欺くための大石内蔵助のカモフラージュという設定ですが、この間、大石内蔵助をはじめ赤穂浪士たちは吉良邸の情報をずっと探っています。
資金が底をつきそうになったある時、吉良邸で茶会が開かれることを聞き込み、複数の情報源から間違いない事を確認して12月14日の討ち入りが決まります。
12月14日赤穂浪士の討ち入り
奇しくも12月14日は浅野内匠頭の月命日でもありました。
討ち入りは表門と裏門の二隊に別れて突入。
戦闘は午前4時から2時間あまり、隠れていた吉良上野介の首を挙げて決着します。
吉良上野介、享年62。
吉良方の死者は17人とも19人ともいわれ、負傷者は24名にものぼりますが、赤穂浪士側に死者はなく負傷者が4名いただけ。
吉良上野介の首と証拠のお守り袋は上野介の白小袖に包んで、泉岳寺に帯同し主君の墓前に供えたといいます。
いまでいうと、スカイツリーのそばから、吉良の首を持ったままプリンスホテルの近くの泉岳寺まで行進したわけです。
赤穂浪士から赤穂義士へ
赤穂浪士に対する世論は賛美一辺倒、幕府の沙汰は「切腹」でした。
本来なら、建造物侵入、殺人、殺人未遂、傷害罪ですから処刑です。
切腹は武士の名誉と考えられた時代、幕府も武士の本懐を遂げたことや、江戸庶民の心情を考慮したものと思われます。
大石内蔵介はこんな辞世の句を残しています。
赤穂浪士の討ち入り12月14日のまとめ
赤穂浪士の史実としては、
「松の廊下で刃傷沙汰があり、赤穂藩断絶。吉良上野介は浪士に殺された」
ということだけです。
ですが、赤穂浪士には、さまざまなエピソードが加えられて、『仮名手本忠臣蔵』『忠臣蔵』の主人公となり、映画やドラマ、小説といったメディアになり愛されています。
復讐譚としての物語よりも、
「成功しても死罪は免れない。それでも実行しなければ人間として成り立たない」
という武士の心情が、今もなお多くの人を惹きつけているのかもしれませんね。