浜松が楽器の街になったのはなぜ?徳川家康と職人たちの意外な関係

浜松が楽器の街になったのはなぜ?徳川家康と職人たちの意外な関係

浜松が楽器の街になったのはなぜ?

徳川家康が浜松に来た理由は?

楽器作りのルーツとなった職人とは?

その疑問、解消します!

日本の三大楽器メーカーの本社がある由来、

中堅楽器メーカーや各種楽器部品工場が集中する理由も含めて、

わかりやすくお伝えします。

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浜松に集中する楽器メーカー

先日、友人たちと人生一番最初の習い事はなんだったか、という話で盛り上がりました。

わたしは幼稚園の年少のときに、ヤマハ音楽教室に通ったのが最初の習い事で、

「♪小鳥がね お窓でね♪」

と始まる『ヤマハおんがくきょうしつのうた』を、ウン十年経った今も歌えると話していたところ、友人のひとりが

「オレはカワイ音楽教室だったけど、歌なんかあったかなー」

と皆、しばし幼年期の音楽教室の思い出話に。

その場にいた7名全員が音楽教室に通っており(時代かなw)、ヤマハ音楽教室派4名、カワイ音楽教室派3名とほぼ半々に分かれました。

ご存知のようにヤマハカワイも日本の有名な楽器メーカーですね。

ヤマハとカワイ、この2つにに同じく日本の電子楽器メーカーのローランドを加えて、

  • ヤマハ株式会社(YAMAHA)
  • 株式会社河合楽器製作所(KAWAI)
  • ローランド株式会社(Roland)

これらは「日本の三大楽器メーカー」と称されています。

中でもピアノ製造ではヤマハが世界シェア第1位。

そして、河合楽器が第2位と、

世界に数あるピアノメーカーの中でも特に高い評価を得ています。

これは、日本の自動車メーカーが取り入れた大量生産方式を、早い時期からヤマハとカワイがピアノ生産にも取り入れたからだと言われています。

その上で、品質においても世界の一流演奏家たちから認められ、名だたる国際ピアノコンクールにも採用されています。

実家のピアノはヤマハでしたが、従姉妹の家のピアノはカワイ、初めてローランドのシンセサイザーを弾いた時はあまりの軽いタッチが衝撃でした。。。

などなど鍵盤にまつわる思い出は尽きることなくありますが、

ヤマハ・カワイ・ローランド、

この3社全ての本社は、静岡県の浜松市にあるんですよね。

日本の三大楽器メーカーが、ひとつの「市」に集中しているってすごくないですか。

他にも、メジャーな中堅楽器メーカーや、各種楽器部品の工場も浜松市内に集まっており、

なんと楽器メーカーだけで、実に200社以上が浜松に拠点をおいています。

そんなわけで、浜松市はピアノ・管楽器・電子ピアノの生産では世界シェア1位を誇っています。

ハーモニカやリコーダーで有名な鈴木楽器製作所も浜松市です。

鈴木楽器製作所はオルガンも有名で、鍵盤ハーモニカの「メロディオン」も鈴木楽器製作所が作っています。

また、エフェクターブランドのBOSSも浜松にあります。

エフェクターとは、楽器のサウンドに様々な変化をつけたり、高音や低音などのバランスを自分の好きに調整することが出来る装置で、

たとえばエレキギターなら、ギターとアンプの間に繋いで、電気的に音を変化させます。

ミュージシャンであれば誰もが一度は目にし、プロミュージシャンのサウンドメイキングには欠かせないアイテムがエフェクターです。

装置上面に取り付けられているペダル(スイッチ)を足で踏むことによって「ON」と「OFF」の切り替えを行い、自分の好きなタイミングで音色を替えることができます。

BOSSのエフェクターは、日本のみならず、世界中で多くのミュージシャンに愛用されています。

そして、新幹線で浜松駅につくと改札内にはグランドピアノがあります。

企業用の展示ブースなので、置かれているピアノも様変わりするのですが、駅の利用客が自由に弾けるようになっています。

時折、玄人筋と思われる人が弾いていたりして、それがSNSにアップされ話題になる演奏もあります。

超高価なグランドピアノが展示される際には、わざわざ遠方から弾きに来る人もいるとか。

ピアノといえば、世界て活躍するジャズピアニストの上原ひろみ氏も浜松出身ですね。

楽器関連のメーカー以外にも、静岡県浜松市では国際的な音楽コンクールが開催されています。

なぜ浜松がこれほどの楽器の街になったのでしょう。

そのルーツをたどると、やはり世界のヤマハ&カワイに行き着きます

なぜ浜松が楽器の街になったの?

ヤマハやカワイ、ローランド、BOSSなど楽器メーカーの本社が数多く集まっている浜松には、世界の楽器が展示されている国内唯一の公立楽器博物館『浜松市楽器博物館』もあります。

浜松が楽器の街となったのには歴史的な背景も影響しています。

浜松は徳川家康の城下町

歴史好きなら、浜松といえば、江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康が思い浮かぶのではないでしょうか。

徳川家康は、29歳のときから45歳で駿府(すんぷ)城に移るまでの17年間、浜松城を居城にしていました。

浜松城は江戸幕府300年の原点となったお城で、天下統一への足がかりとなったことから、「出世城」とも言われています。

浜松は、東京と大阪のほぼ中央に位置します。

北は天竜の山々、

南は遠州灘(えんしゅうなだ)、

西は浜名湖、

東は天竜川に囲まれた自然の恵み豊かな地です。

現在では楽器やオートバイ、綿織物などの産業が盛んですが、

浜松市が本格的に産業発展したのは、徳川家康の在城がきっかけです。

1568年(永禄11年)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。

「天下をとるためには、まず信玄を倒さなければならない」

と判断した家康は、1570年(元亀元年)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠(すんえん)経営の拠点としました。

駿遠とは、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部)と遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに:現在の静岡県西部)の2つを指します。

他にも、徳川家康がこの場所に浜松城を築いた理由は、

・幼少時代に駿府にあった今川義元のもとで人質生活を送ったことで土地勘があったこと、

・冬も暖かく温暖な地であること、

・米や野菜がおいしいこと、

・南の遠州灘・西の浜名湖・東の天竜川といった天然の要塞があること、

・諸大名が参勤交代で通る際の拝謁に便利だったこと、

などが考えられます。

城下町に職人が集結

家康公が浜松城の築城を決めると、徳川家康の城下町として浜松の街並みを整えるべく、各地からさまざまな職人が集められました。

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そうして、城や町が整備されてゆくと、自然と商いも増えてゆき、それにつれて、また職人たちが集まってきます。

人が集まるところ、技術も進歩し、経済的にも活気が出るのは今も昔も変わりません。

腕が命の職人衆の中でも特に幅を利かせていたのが「大工」と「鍛治(かじ)」で、職人であると同時に、町の顔役的な存在でもありました。

鍛冶とは、鉄などの金属を熱して打ち鍛え、製品を製造することで、刃物や釘、鉄砲や農具などを作ります。

他にも家康公の城下町になった浜松には、ものづくりのために、自然といろいろな業種の職人が各地から集まるようになりました。

このような背景から、木工や鉄工、鋳物や漆塗りなど、様々な技術が求められるピアノやオルガン作りに役立つ人材が、江戸時代から揃っていたわけです。

ヤマハ創業者・山葉寅楠が浜松に来た!

江戸時代から時を経て、時代は明治に変わります。

楽器・音響機器メーカーのヤマハ株式会社(YAMAHA)の創業者は山葉寅楠(やまは・とらくす/1851~1916年)という人物です。

紀州藩士・山葉孝之助の三男として生まれた寅楠は、幼い頃から手先がとても器用でした。

1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に還し、江戸幕府を消滅させます。

明治維新を迎え、虎楠は大阪に出て、そこで見た懐中時計に興味を持ちます。

そして、長崎に出てイギリス人から時計修理の技術を学びました。

のちに再び大阪に戻り、医療器具店で修理工として働きます。

32歳の時、浜松市にあった浜松病院の医療器具の修理を依頼され、宿に部屋を借りて住み込みながら修理を請け負っていたところ、

1887年、35歳になった寅楠に、浜松尋常小学校の壊れたオルガン修理の依頼が舞い込みます。

当時、オルガンは高級品で、すべて輸入に頼っていたこともあり、仕組みを理解している人は浜松には誰もいなかったのです。

地元出身の貿易商社員がアメリカから輸入して、浜松尋常小学校寄付した貴重なオルガンは、米1斗(20㎏)が1円の時代に45円もしたといいます。

その高価な楽器、オルガンがある日突然、音を出さなくなったので

「医療機械を直せる山葉寅楠なら直せるかもしれない」

ということで虎楠に白羽の矢が立ったんですね。

修理は大成功、

この経験から、寅楠は自分がオルガンを製作することを決意します。

寅楠は依頼されたオルガン修理の際、分解修理をしながらすべての部品を図面に書いていました。

その図面をもとに1887(明治20)年、日本初のオルガン製造に成功。

1889(明治22)年には、浜松に『合資会社山葉風琴製造所』を設立しました。

「風琴(ふうきん)」とはオルガンのことです。

情緒のあるきれいな文字ですね^^

山葉風琴製造所では、のちの『河合楽器製作所』の創業者となる河合小市(かわい こいち)が、1897年(明治30年)、11歳の時に山葉寅楠の元に弟子入りしています。

河合小市は、浜松市菅原町の車大工の子どもで、12歳の少年時代から山葉寅楠のもとで国産初のピアノ作りに取り組み、

「発明小市」と呼ばれたほど、手先が器用で研究心があったといいます。

ヤマハとカワイの出会い、なんとも不思議な縁ですよね。

紆余曲折を経ながらも、寅楠の山葉風琴製造所の評価は高まっていき、

1897年(明治30)年10月12日には、資本金10万円で日本楽器製造株式会社を設立し、寅楠は初代社長に就任しました。

1900(明治33)年に、国産第一号となるピアノが完成。

勢いにのって、は1902年にはグランドピアノを完成させます。

そして、1904(明治37)年、アメリカのミズリー州セントルイスで開催された万国大博覧会に、オルガンとピアノを出品し名誉大賞を受賞します。

1907(明治40)年、寅楠の日本楽器製造はピアノとオルガンの生産日本一となり、

このころから寅楠は優秀な技術者を育てる見習生制度をスタートさせ、数多くの優秀な技術者を誕生させました。

日本楽器製造は順調に業績を伸ばし、河合小市も腕をふるっていましたが、1916年(大正5年)山葉寅楠が他界します。

その後、2代目社長のもとで大規模な労働争議が勃発、

外部から社長が来て経営の合理化を図るのですが、結果として、河合小市ら技術者にとってはなじめないものとなり、日本楽器を去っていくこととなります。

1927年(昭和2年)、河合小市を中心とした技術者7人が、浜松に河合楽器研究所(のちの河合楽器製作所)を設立。

こうして、浜松に楽器メーカーの2大巨頭が並び立ったわけです。

浜松市で創業する楽器メーカーと移転してきた楽器メーカー

1953(昭和28)年になると、教育楽器の鈴木楽器製作所が浜松で創業します。

鈴木楽器製作所は、河合楽器製作所を退社した鈴木萬司によって創業されました。

さらに、1972年(昭和47年)に大阪で創業したローランド株式会社が、2005年(平成17年)に、本社を浜松に移転します。

先述のエフェクターのBOSSはローランド株式会社のブランド(子会社)のひとつです。

さらにローランド株式会社は2016年、DJ向けを中心とするヘッドホンを展開していたアメリカの V-MODA LLCの株式を取得して子会社化したことにより、高級ヘッドホンなどのブランド「V-MODA」もローランド(株)のブランドとなりました。

またひとつ、浜松に楽器関連のブランドが増えたわけですね。

浜松が楽器の街になったのはなぜ?徳川家康と職人たちの意外な関係 まとめ

こうして歴史から見ていくと、浜松が楽器の町になった一番の理由は、やはりヤマハとカワイの存在ですね。

浜松という拠点ができると、本社機能や工場、周辺のインフラが集中&整理されることで、生産効率が上がります。

また、前述のように、徳川家康公の城下町だったことで江戸の時代から職人が多かったという土地柄もあります。

日照時間が長く温暖な浜松の気候の特徴も、ものづくりに適した環境です。

そして、東京と大阪の真ん中に位置する浜松は人の交流も多く、職人が集まることで、より一層、ものづくりへの気質や土壌が育まれてきたといえます。

楽器のみならず、世界を代表する企業であるスズキ、ホンダもこの浜松で創業しています。

ヤマハ・カワイ・スズキ・ホンダ、

これら外国人でも知っている有名メーカーが、すべて日本のひとつの街、浜松で創業したというのは驚きですよね。

なんだか、一時のIT企業・スタートアップの聖地『シリコンバレー』を思い起こさせます。

浜松市を含む遠州(えんしゅう)地方の進取の気性に富んだ起業家精神は『やらまいか精神』と呼ばれています。

この言葉は「やってみよう」「やろうじゃないか」という意味で、

遠州人の

「あれこれ考え悩むより、まず行動しよう」

という、積極的に新しい物事に取り組む進取の精神を表すものです。

こういった浜松市民の気質も、浜松が楽器の街となった一翼を担っているのかもしれませんね。

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