松の内とは何のこと?
「松の内が明ける」の意味は?
期間はいつからいつまで?
関東と関西で違う理由は?
その疑問、解消します!
松の内と歳神様の関係、
門松を飾る意味、
地域によって松の内の期間が異なる由来、
元禄文化との関連も含めて、
わかりやすくお伝えします。
松の内とはどんな意味?
年末年始になるとよく耳にする言葉に「松の内(まつのうち)」があります。
松の内は、日常でもビジネスでも結構な頻度で出てくるキーワードです。
「新年の挨拶は松の内に」
「松の内が明けたら伺います」
とか、
「年賀状は松の内まで」
「初詣は松の内のあいだに行こう」
とか、
「あっという間に松の内も過ぎて・・・」
といったような使われ方をしますね。
松の内の意味とは?
松の内の意味を簡単に言うと、
『正月の松飾りを飾っておく期間のこと』
松飾りというのは、 お正月に門前や玄関に飾る松のことです。
「門松(かどまつ)」ともいいます。
昔からお正月には歳神様が家を訪れると信じられており、
門松は歳神様が道に迷う事なく家に来るための目印とされています。
また、歳神様の滞在を示す印とも言われています。
松飾りは門松のことですが、
家庭用には簡略な松の葉だけの松飾りもあります。
ちなみに、この正月飾りに『松』が使われるのは、
「歳神様を『待つ』」
「歳神様を『祀る(まつる)』
という言葉からきたものだと考えられています。
「松の内が明ける」とは?
松の内は、正月の松飾りを飾っておく期間のことでしたね。
この松の内の期間が終わることを、
「松の内が明ける」
と言います。
「松が明ける」
という言い方もします。
関西、主に西日本では松の内が明けるのは1月15日ですが、
この日は旧暦のお正月の日にあたります。
松の内が明けるのは地域で違いがありますが、
共通しているのは、
松の内が明けると松飾りやしめ飾りなどの正月飾りを外し、
鏡開きを行ったりして、
お正月のお祝いも終わりを迎えることになります。
◇ 鏡開きについて詳しくはこちら。
・お正月の鏡餅はいつからいつまで飾るのか正しいお供え場所はどこ?
お正月の松の内の期間はいつからいつまで?
松の内の期間は、
西日本では1月15日までとするのが一般的で、
東日本では七草粥を食べる1月7日までとするのが主流です。
松の内の始まりの日はいつ?
松の内の始まりの日は、2つの考え方があります。
1つは、お正月の準備を始めるとされる12月13日の『正月事始めの日』をスタートの日とする考え方。
- 基本的な松の内の期間:12月13日~1月7日
- 関西、西日本の一部地域の松の内の期間:12月13日~1月15日
◇ 『正月事始めの日』について詳しくはこちら。
・正月事始めとは?煤払いと松迎えの意味からわかる大掃除との関係!
もうひとつは、元日を松の内の始まりの日とする考え方です。
- 北日本・東日本:1月1日~1月7日
- 西日本:1月1日~1月15日
一般的に、「松の内」と言えば、元日スタートでお正月に松飾りがある間を指します。
『松の内は歳神様が家に滞在している期間』
という考えですね。
広辞苑では以下のようになっています。
正月の松飾りのある間の称。
昔は元日から15日まで、現在は普通7日までをいう。
「称」というのは呼び名のことです。
なぜ松の内の期間が違うの?
松の内は地域によってその期間が異なり、
関東と関西でも違います。
わたしは東京ですが、松飾りなどの正月飾りを外すのは1月7日です。
関西や九州にいる親戚や知人たちは1月15日まで飾っており、
子供の頃は、
「歳神様が長くいてくれていいなー」
と思っていました。
ただ、東京都内でも地域によっては1月15日にしているところがあったり、地域によっては10日としているところもあるようです。
松の内の期間は、もともとは関東も関西も、終わりは小正月である1月15日でした。
それを、関東では江戸時代に1月7日に短縮したという歴史があります。
短縮した理由については諸説あるのですが、有力なものを2つご紹介しますね。
■ 鏡開きの前倒し説
鏡開きを前倒ししたことから、松の内も1月7日になったという説です。
江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 – 1651年)、徳川家光(とくがわいえみつ)の命日に関係しています。
この時代、歳神様にお供えをしていた鏡餅を下げて食べる『鏡開き』は、松の内が終わった後の1月20日に行っていました。
ところが、徳川家光が慶安4年(1651年)4月20日に亡くなったことで、
20日という日を忌み嫌うようになった徳川幕府は、20日よりも前の11日に鏡開きを行う事にしたのです。
ですが、この日程だと、松の内の期間中に鏡開きを行ってしまうことになります。
そのため、江戸幕府は松の内も前倒しにして、1月7日に変更したのです。
この時、この変更が全国的にうまく伝わらなかったために、関西では15日までが松の内で、同じ日に鏡開きもすることになったと言われています。
■ 火災予防説
幾度も大火を経験した江戸幕府が火事を避けるため、
「正月飾りは1月7日で飾り納めにするように」
とお達しを出したことが由来だという説があります。
冬の乾燥した時期、燃えやすい紙と木で出来た江戸の街は火事になりやすく、2~3年に一度は大火に見舞われています。
中でも、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」は、死者10万7千人に及び、江戸の大半を焼き尽くしました。
防火の意味で、江戸では1月7日までが松の内になり、それが地方にも広まったという説です。
関西が1月15日のままなのはなぜ?
江戸幕府が松の内のは1月7日にするというお達しを出した時代、
大阪や京都は元禄文化の真っ只中です。
経済の中心にあたる「天下の台所」と呼ばれる大阪など、
「上方」が活気づいた時期でもあるわけで、
江戸の新しいルールなどどこ吹く風、
といった感じで、松の内は1月15日としたまま変わらなかったのです。
◇ 元禄文化についてはこちらのサイトがわかりやすくまとめています。
・【元禄文化とは】特徴を簡単にわかりやすく説明!!代表的な作品&人物【まとめ】
松の内とはどんな意味?今さら聞けない期間や使い方、由来を簡単に! まとめ
松の内の意味は、
『正月の松飾りを飾っておく期間のこと』
松の内の期間が終わることを、
「松の内が明ける」
「松が明ける」
と言います。
松の内の期間は、
西日本では1月15日までとするのが一般的で、
東日本では七草粥を食べる1月7日までとするのが主流ですが、
地域によっても異なります。
松の内の時期が異なる理由には諸説ありますが、
いずれも、もともと小正月の1月15日だったものが、
「江戸幕府のお達しで1月7日に前倒しになった」
というのが共通しています。
年賀状を出したり、お返しする期間は松の内を目安にしています。
松の内が明けてから返信をするときには、
年賀状ではなく寒中見舞いで出すのがマナーなので、気をつけてくださいね。
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