お花見の由来や起源とは?
春の桜を楽しむ宴会はいつから行われている?
どのようにして広まっていったの?
その疑問、解消します!
もともと花見で愛でられていた花、
桜になった理由、
武家社会で催された歴史上の有名な花見イベントも含めて、
わかりやすくお伝えします。
お花見の由来や起源とは?
3月から4月にかけて、
日本各地では春の到来を告げる桜の花が開花して、
絶好のお花見シーズンを迎えます。
美しいピンクの桜の木の下、
お弁当を広げたり、
お酒を酌み交わしたり、
食べて飲んでにぎやかに楽しむお花見の習慣は日本独自のものです。
花見とは、読んで字のごとく「花を見ること」が花見。
ですが、今どきのお花見は花を見ることよりも、
人々が「集まること」や
集って「お酒を飲むこと」がメインの、
『宴(うたげ)』といった位置づけになっていますよね。
地域によっては、お花見でBBQを楽しむなど、
春レジャーの一環にもなっており、
まさに「花より団子」といった感じです。
春のお花見の風習はとても古く、
その起源はなんと1300年以上も前にさかのぼります。
お花見の起源は?
お花見はすでに奈良時代(710年~794年頃)には、貴族たちのあいだで行われていました。
ただし、奈良時代の貴族のお花見は桜の花ではなく、
唐(中国)から伝わった『梅の花』が中心でした。
お花見の花が梅から桜になったのはなぜ?
お花見が『桜』を見ることを指すようになったのは平安時代(794年~1185年)のことです。
貴族たちにとって花見は、詩歌を披露し教養を競う場でもあったようで、
7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた和歌集の『万葉集』には、桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が110首程度みられます。
これが10世紀初期の『古今和歌集』になると、桜が70首に対して、梅が18首と逆転しています。
『万葉集』に梅を詠んだ歌が多いのには諸説ありますが、
梅が当時中国から輸入された最新流行の花だったから、と考える説が知られています。
梅は日本に自生していなかったんですね。
それが平安時代になると日本に自生している桜の花に注目が集まり、
日本風な美として和歌に詠まれるようになります。
こうして花見の対象は梅から桜へとシフトしていったようです。
お花見イベントで歴史上有名なものは?
平安時代の歴史書「日本後紀」には、
812年3月28日(弘仁3年2月12日)、
日本の第52代天皇である嵯峨(さが)天皇が、
京都の寺院「神泉苑」で『花宴の節(せち)』を催したという記述があります。
時期的に花は桜であったとみられることから、
この『花宴の節』が文献による桜のお花見の記録として、最古のものとされています。
嵯峨天皇が大の桜好きだったことから、桜の花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人の桜好きの原点と考えられています。
鎌倉時代(1185年~1333年)に入ると、貴族の花見の風習が武士階級にも及び、
江戸時代(1603年~1868年)になると、8代将軍徳川吉宗が1720年に大規模な桜の植樹を行い、
これを機にお花見が庶民の行楽としても親しまれるようになります。
もともとは貴族の行事であった花見が、
鎌倉時代以降、武士の間に広がり、
やがて庶民に定着してゆく、
といった流れになっているのですが、
花見が武士や庶民の間に広まっていったのには、
室町幕府の8代将軍足利義政が、
1468年に行った『花頂山大原野(かちょうざんおおはらの)の花見』など、
いくつかの大がかりな花見イベントがあったことにあります。
なかでも豊臣秀吉が1594年に行った『吉野の花見』、
1598年に行った『醍醐の花見(だいごのはなみ)』は、
いずれも大変豪華なものだったことで有名です。
豊臣秀吉の吉野の花見とは?
文禄3年(1594年)2月27日、
豊臣秀吉が吉野の地で大々的に花見の宴を行ったのが『吉野の花見』です。
吉野は桜の名所であり、
2月27日というのは旧暦なので、新暦に直すと4月17日。
まさに花の見頃ですね。
秀吉は徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らそうそうたる武将をはじめ、
茶人(ちゃじん:茶道に通じている人)、
連歌師(れんがし)たちを伴い、
総勢5千人もの人々を引き連れて盛大な花見の宴を催しました。
連歌師の「連歌」とは、複数人が集まってリレー形式で和歌を詠む、日本に古くからある詩歌の様式のひとつで、上の句と下の句を複数の人で分担して詠みあう形式です。
連歌師とは、連歌を専門として指導にあたり、連歌に巧みな人のことです。
秀吉の招きで集った人々は
本陣となった吉水院(吉水神社)には5日間のあいだ滞在し、
歌の会、茶の会、お能の会なども開いて豪遊したといい、
その様子は、庶民の耳にも行き届くほど盛大なものだったと言われています。
豊臣秀吉の醍醐の花見とは?
『醍醐の花見(だいごのはなみ)』は、
慶長3年3月15日(1598年4月20日)、
豊臣秀吉がその最晩年に、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴のことです。
幼子の秀頼、正室の北政所(きたのまんどころ)である「ねね」、側室の淀君、諸大名から、
その配下の女房女中衆の約1300人もの大勢を集め、絢爛豪華にとりおこなわれました。
この花見の5か月後に秀吉は他界するのですが、
参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられ、
一人3着ずつ着物が新調されたとか。
衣装代だけで現在の39億円に相当する費用がかかったというのですから、
満開の桜の下、美しく着飾った女性たちの姿はきらびやかで、超絶ゴージャスなものだったと想像できます。
秀吉の『吉野の花見』と『醍醐の花見』は、商売人にも影響を与え、一般の庶民に花見が広まる機会にもなりました。
お花見の由来や起源とは?春に桜を愛でるルーツと歴史文化をご紹介! まとめ
お花見はすでに奈良時代(710年~794年頃)には、貴族たちのあいだで行われており、当時は『梅の花』が中心でした。
『万葉集』に梅を詠んだ歌が多いのは、梅が当時中国から輸入された最新流行の花だったから、と考えられます。
それが平安時代(794年~1185年)になると日本に自生している桜の花に注目が集まり、
鎌倉時代(1185年~1333年)に入ると貴族の花見の風習が武士階級にも及び、
江戸時代(1603年~1868年)になると、お花見が庶民の行楽としても親しまれるようになります。
歴史上の大がかりで豪華な花見イベントとしては、
1468年の『花頂山大原野の花見』、
1594年の『吉野の花見』、
1598年の『醍醐の花見』
などがあります。
はるか昔から日本人が受け継いできたお花見の文化、
歴史を知ると、より一層味わい深いものになりますね。
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